ミオちゃん離婚話

彼と別れた。そもそも結婚した覚えはないが、左手の薬指に嵌まる指輪は間違いなくお揃いだった。
結婚する時も、彼に引かれながらあれよあれよと手続きを進め、気づけば入籍の手筈が完了していたからだろうか。離婚届を突きつけられてもあまり心が動かされることはなかった。
「ごめんね、ミオちゃん」
ごめんというならば、はじめからこんなことしなければいいのに。わたしは静かに指輪を外し、
「ここに名前を書けばいいの?」
と、空枠を指さした。
こくり、と音もなく彼が頷くので、やっと書き慣れた苗字を記し、身分を証明するのは今日で終わりだ。
筆を置いた後、また彼がごめん、と呟いた。
「もう、いいから」
何がいいのか、自分でもわからない。でもこれ以上言葉が見つからない。どんよりした空気が蔓延る部屋から離れたい。
わたしはまとめた荷物を持って、二度と訪れることのない301号室を後にした。

いつもなら新幹線は自由席を取るのに、今日は指定席を確保する。
三列シートの真ん中をわざと選んだ。
少ない荷物を網棚に乗せるか迷い、結局足元に置く。爆睡している両隣の男性を起こさないように鞄からお茶を出して一口すすった。
「あ……」
しらずしらずのうちに、彼が集めていた応募券を取っている自分がいる。
もう必要が無いと判断し、剥がしたシールをぐしゃぐしゃに丸めた。
実家に帰ったらなんて言おうか。そのことばかりを考えて、気がつけば乗り換え駅だった。
温泉旅館を営んでいる実家は、駅から少し車を走らせた先にあった。
客と同じ出入り口から部屋へ上がり、母屋を目指す。
途中通りがかった知り合いの中居から、いぶかしげな目で見つめられ、ばつがわるかった。

「ただいま帰りました」
畳に正座し、母親と半年ぶりに顔を合わせる。
「ミオ、あなた」
言わんとすることはわかった。でもどう返事をすれば良いかはわからない。
まごついた唇に、母は静かに首を振った。
「分かったから。何も言わなくてもいいの」
その言葉をかけて欲しかったのだろうか。気づけば頬を涙が伝っていた。彼とどれだけ喧嘩しても泣かなかったのに。
「この後どうするの」
一番困る問いかけに、わたしは素直に
「わからない」
と答える。母は、
「そう」
と、だけ言って、それ以上は何も言葉を紡がなかった。
そのとき。
バタバタ、と誰かが走る音がして漫画のようにすぱんっとふすまが開く。
「ミオ姉ちゃん!?帰ってきてたんなら教えてくださいよぅ!」
末妹のナギサが、わたしを見つけるなりぎゅっと抱きしめた。
「ただいま、ナギサ。これからはずっといられるから」
抱きしめ返しながら宥めるようにそう言うと、ナギサは先程までの笑顔を引きつらせ、
「え?」
と呟く。それはまるで氷のように冷たく重い一言だった。
「ーーさんは?」
元夫は、妹も懐いていたように感じた。
結婚したての頃は姉を取られたと頬を膨らませていたそうだが、それでも正月やお盆に顔を合わせると、本当の兄妹のようにじゃれあっている姿が印象的だった。
だからその冷たい発言は、わたしに向いているのだと錯覚し、背筋が凍った。
元夫は、妹も懐いていたように感じた。
結婚したての頃は姉を取られたと頬を膨らませていたそうだが、それでも正月やお盆に顔を合わせると、本当の兄妹のようにじゃれあっている姿が印象的だった。
だからその冷たい発言は、わたしに向いているのだと錯覚し、背筋が凍った。
彼女が、わたしを抱きしめる手に力が篭る。
「あ、あのねナギサ」
恐る恐る声をかけた。
「っは!なんでしょうミオ姉ちゃん!」
すると、妹は憑物が取れたようにいつもの無邪気な表情に戻る。あの声色は何だったのか、本当に妖にでも取り憑かれたのか、と非科学的な妄想が何度も頭の端でちらついた。


それから、わたしはナギサの猛烈なアタックという名の助言で、またここに住まうことになった。ナギサも、その上の妹、ミナトもここで働いていることから、自然とここで世話になる道筋になっていたようだった。
あの一件以来、ナギサが低い声を出すことは無い。やはりあれは悪い妄想だったのだろう。


「ミオ姉ちゃん!今日はすき焼きにするみたいです!お肉買いに行きましょー!」
ナギサが通る声でわたしを呼んだ。二つ返事で彼女に同行する事を伝えると、嬉しそうに飛び跳ねる。もう成人して二年経つのに、いつまでも子どものような無邪気さが、可愛らしさを引き立たせるのだろう。
彼女の運転でスーパーに向かう。
うちは田舎だからどこに行くにも車が必要だった。
「ミオ姉ちゃんと久しぶりのお出かけっ!嬉しいですっ!」
ナギサは、心底嬉しそうに音楽を流しながら他愛もない話をし始めた。大きなキンメダイを釣った事、その拍子に海に落ちた事などなど。
家族といる時間がこんなにも楽しいなんて、あの頃は考えたこともなかった。
スーパーでもナギサが先導し、食べたいものをひょいひょいとカゴに入れていく。
「入れすぎると食べられないわよ」
「だいじょーぶですっ!夕飯は別腹なので!」
そんなの聞いたことないわ。と、可笑しくてずっと笑っていた。
「さ、帰ろう」
かちり、とシートベルトを締める。豪快にエンジンを吹かし、車が発進……しない。
「ナギサ……っ」
彼女の顔色を伺う。まただ。
濁った魚のような目をしながらじっ、と前方を見つめ静かに呼吸する。
「ミオ姉ちゃん、どうして棄てられたんですか?ミオ姉ちゃんが棄てたんですか?」
彼女は続ける。
「ミオ姉ちゃんが棄てる訳ないですよね。こんなに献身的なわたしの姉を棄てたのはあの男ですよね」
ギリギリとハンドルを握る手が強くなる。やがて、肩で息をしながら彼女はなおも言葉を繋げた。
「姉ちゃん、今度はわたしが質問する番です。どうしてあの人と別れる道を選んだのですか」
どうして、と言われても……。
「わたしにも、分からない」
思えば、彼のことなんて何も分からなかった。わたしに感情を押し付け、ただ妻というポジションを与えられただけの道具に過ぎなかったからだ。
「わたしはどうすればよかったのか分からない……あの人と付き合えば、結婚すれば、夫婦の営みをすれば……別れれば、何か分かるかもしれないと思った。けれど、なにも分からなかったの」
これが、精一杯に考えた、わたしなりの答えだった。
妹は、ただ前を見据えているだけ。
「ナギサ……わたしはどこで間違えたの?」
わたしたち夫婦の話を彼女に尋ねるのは間違いだと、頭では分かっているのに、答えが欲しくてつい聞いてしまう。
彼女の答えはこうだった。
「あの人と、出会ってしまったのがそもそもの原因です……あの男に、姉ちゃんは勿体なさすぎたのです」
出会ったことが、間違い。
それが本当の答えなのだとしたら、わたしの人生は一体どれだけ無駄にしてきたのだろう。
一瞬の考えが、雪だるま式に膨らんでいく。
暖房の効いていない車内の寒さが身に染みた。

あれから、いくつかの季節が過ぎた。左手の薬指の跡も消え、彼の姿はおろか名前も忘れてしまった。今は、家族と仲良く寝食を共にする生活が、なによりも楽しみだ。
今年も庭先の桜が満開で、旅館の客足もピークを迎えた頃。
一人の男が、旅館を訪れた。
その人は、わたしたちのもてなしひとつひとつに感謝し微笑む。
愛想のいい人だと思った。
彼は、チェックアウトする最後の最後までずっとわたしたちに優しい。なんだか、家族と団らんしているときみたいに、あたたかな気持ちに包まれていた。
彼が帰った後、ぽっかりと穴が開いたような虚しさがわたしを襲う。
そして、ふと考えが頭をよぎった。あんな人と結婚していたら、わたしはナギサを悲しませる事はなかったのだろうか。
出会ったことが間違いだと言われなくて済んだのだろうか。

その答えが見つかることは、これからも永遠にないことは、わたしが一番理解していたことだった。
おわり。

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